Text : Hiroshi Kishiro
新しいバイオバスの前で笑顔を見せるベン(左端)とラターシャ(右端)(Photo: Andrew Cribb)
この文章を読まれる方には「科学?正直苦手です」「自分と全く関係なさそう」と考える方も沢山いらっしゃるだろう。筆者の私もそうでした。でも今回はそんな方々にこそ読んでいただきたいお話です。
ブロンクスに「バイオバス」がやってきた
季節が戻り肌寒い朝を迎えた2026年3月20日。ニューヨーク・ブロンクスにあるベイチェスター・ミドルスクール(アメリカの中等学校)にとってこの日は特別なものとなった。沢山の生徒達が校舎の前に停められたバイオバス(Biobus)のロゴ入りの新しい大型バスを好奇心に満ちた目で眺めている。
「バイオバス」は幼稚園児から大学生までを対象に「科学の経験を届ける」ことを目的とした移動式ラボ。複数の顕微鏡やモニターが装備された車内はまるで秘密基地のようだ。生徒たちは放課後やお昼休みに立ち寄って気軽に科学に関係した体験ができる。
非営利団体に運営されるバイオバスはこれまでに世界中の1,000以上の学校、4万人以上の学生に「科学の一歩」を体験させてきた。訪れた学校の84%の教育者達は自然史博物館やニューヨーク科学館と「同様、もしくはそれ以上の価値」があると評価を与えている。
でも「移動式ラボ」というユニークな発想はどこから生まれたのだろうか?
「子供達はフィールドトリップ(校外学習)が大好きだろう?でも実際は準備や許可に手間がかかって、実行するのはとても大変なんだ。でもバイオバスは自分の方から来てくれる(笑)『学校の前に来てくれるフィールドトリップ』それがバイオバスなのさ」。プロジェクトの創設者の通称「ドクター・ベン」、ベン・デュービン=セイラー(Ben Dubin-Thaler)はこのバスについてこう話す。
今日は新しいバイオバスがブロンクスへ登場したことを祝う式典の日。講堂に集められた子供たちの多くはWizkids Books Before Basketball(バスケットボール練習の参加に一定以上の学業成績を必要とするプログラム) のメンバー達。数名のコミュニティー・リーダーによるの祝辞の後、ベンがスピーチの為にステージに上がった。
スピーチのためにステージに上がったDr.ベン (Photo: Andrew Cribb)
好奇心旺盛な子供時代
ベンは好奇心旺盛な子供だった。父も母も義父もみんな物理学者という科学が身近な環境で育った。「サッカーも音楽も好きで、特にサクソフォーンが得意だった。本やコンピューター、勿論科学も大好きだったよ。あまり自分を周りに合わせない、いわゆる『型にはまらない』子どもだったけれど、家族は『みんなと同じである必要はない』といつも励ましてくれたんだ」。
ベンは幼い頃、土を掘って遊んでいた時のことを覚えている。「家の前の小さな庭で、近所の子供と一緒に土の中に住んでいるミミズや虫を見つけようとしていたんだ。そうしたらその子のお母さんが『うちの子がこんなことをするのは初めて。これまでは土を触るのを怖がっていたのに。娘に「探究すること」を教えてくれてありがとう」そう言って僕に感謝してくれたんだ」。
その時の経験はバイオバスの形で現在に引き継がれている。「誰かが楽しそうに探究している姿を見たら、自分も真似してみたいと思うだろう?それがまずは最初のきっかけになるんだ」。
自費で購入した最初のバス
コロンビア大学で生物物理を専攻したベンは、2008年、博士課程を終えた直後にバイオバスのプロジェクトを開始。「大学院ではビジネスを学ぶ訳じゃないし、始めは何から手をつけたら良いか全くわからなかった。最初のバスは自分の貯金1万5千ドルを使って購入したんだ。その後も家族に寄付を懇願して回ってね。本当に大変だった(笑)。だから父と一緒に書いた申請書で初めて助成金を獲得した時のことは今でも忘れられないよ」。
最初のバイオバスは1974年製の乗客用バスを改造してつくられた。走るたびにガタガタとうるさい音をたて車内は常に油の匂いがする。調子が悪い時にはベン本人が修理をした。だがバスに乗車する子供達は新しい体験に輝くような笑顔を見せた。
「振り返ると、いろんなことに興味を持ってきたことが役立った。おかげでバスや電子機器が壊れた時はなんとか自分で修理をすることもできたし、助成金の文章作成、給料計算、動画制作もこれまで培った少しづつの知識が使えたからね」。
まるで秘密基地のようなバイオバスの内部(Photo: Andrew Cribb)
ニューヨーク市の抱える公共教育の闇
ベンのバイオバスには一つの特色がある。それは性別や人種、経済状況などの理由により科学に触れる機会が与えられていない子供達を中心にサービスを提供している点だ。プログラム参加者の8割は黒人やラテン系の学生である。
日本の教育は文部科学省が全国共通のカリキュラムを定め、地方自治体が運営を担うため、地域による差は生まれにくい。だがニューヨーク市の公共教育は地域によってその質に深刻な差が存在することで全米でも有名である。
ニューヨーク市は教育予算の多くを固定資産税に依存している。そのため低所得者層の地域と裕福な白人が住む地域では生徒一人あたりの予算に大きな差を生む。それがカリキュラムや教師の質、学校設備、成績など様々な側面に影響を与えている。
日本人にあまり知られることのないニューヨークの持つ「闇」の一つだ。
一つ例を挙げよう。黒人やラテン系の生徒達はニューヨークの公共教育システムの3分の2以上を占めている。だが2024年の小学4年生の全国学力テスト(読解力と数学)ではその半数以上が「標準以下レベル」の評価を受けている。
インターンシップではバイオバスに参加する年少の学生への指導の機会が与えられる(Photo Credit: Andrew Cribb)
ベイチェスター・ミドルスクールがあるブロンクスはニューヨーク市の中で最も貧しい行政区。住民の4分の1程が低所得者層とされている。だがベンはこうしたエリアの子供達こそ科学に触れる機会が必要だということ、
そのためにはどこでも駆けつけられる移動式ラボが最適だということを知っていた。
「自分の経験から、幼い頃に科学に触れることがどれだけ重要か実感していた。だから子供達がそうした機会を与えられない社会、それを是正し、公平にする必要があると思ったんだ」。
もっと身近で楽しい科学を。ハーレムとロウアー・イーストサイドを拠点として展開されたバイオバスのプロジェクトは2011年には共同創業者のドクター・ラターシャ・ライト (Dr. Latasha Wright)が加わることで、
更に多くの学校や子供達にそのメリットを届けることができるようになった。
「好奇心が芽生えて子供達の目が輝く瞬間、私はとてもハッピーに感じるの」(Photo Credit: Jamie Killen)
「発見・探求、そして追求」
生徒や先生からはこういう機会がもっと必要だ、と言う感想が多数寄せられた。「そこで2013年頃からバイオバスに加えて放課後プログラムやインターンシップの制度を開始したんだ。」とベンは語る。
現在バイオバスのプログラムは主に「Discover(発見)」「Explore(探求)」「Pursue(追求)」の3つの柱に分かれている。
「発見」プログラムは、バイオバス内で行われる顕微鏡での観察や短時間で体験できるポップアップ形式のイベント。そして「探求」プログラムは、学校やコミュニティセンターで8〜12週間にわたり実施され、学生達はより深い研究に取り組むことができる。3つ目の「追求」プログラムは、高校生や大学生を対象とした有給インターンシップ。自分の選んだ研究に加え、バイオバスに参加する年少の学生への指導の機会が与えられる。
スタッフの説明に熱心に聞き入る生徒達(Photo: Andrew Cribb)
個性あふれるジュニア・サイエンティスト達のプロジェクト
「Explore(探求)」のプログラムに参加するジュニア・サイエンティスト達(中学生と高校生が中心)の研究内容は個性的でバラエティに富んでいる。テーマは生徒達によって考案されたものだという。
あるグループは対照的な2つのエリア、富裕層が住むアッパー・イーストサイドと隣り合う低所得者層の地域、イースト・ハーレムの街路樹の育ち方の違いに目をつけ、土壌のコンディションを調査。生態学だけでなく今後の都市開発にも関連するテーマを研究した。
また別のグループはPM2.5(排気ガスなどによって排出される微粒子状物質。呼吸によって血流に入り込み心血管疾患や呼吸器疾患を引き起こす)の空気中の濃度に注目し、極端な暑さがハーレムの空気の質にどのように影響するかについて研究を行っている。
他にも硫酸銅が蝶の成長にもたらす影響、ハドソン川の水質に関する研究、中にはアルコールで酔っ払ったショウジョウバエの攻撃性の研究などというのもある。どれも彼らの日常から生まれた疑問が生み出した研究ばかりだ。
「好奇心が芽生えて子供達の目が輝く瞬間。私でも答えられない、思いもよらない質問を子供達がした時に、私はとてもハッピーに感じるのよ」とラターシャは大きな笑顔を見せる。「子供達は自分たちのエリアが抱える問題を自分たちで解決できないか探っているの」。
調査によるとバイオバスのインターン生の94%以上が大学でサイエンスを専攻、または副専攻、もしくはサイエンスの分野にある職業を選んでいるという。
ハドソン川でプラクトンを集めるジュニア・サイエンティスト達 (Photo: BioBus)
「今日ここにいる若い皆さんへ」
話はミドルスクールの式典に戻る。ステージに上がったベンは関係者に感謝を述べたあと、落ち着いた声で話し始めた。
「18年前、私が初めてバスを持ち込んだ最初の中学校がありました※。それがこの学校です。2009年1月で、とても寒い日でした」。
ベンは話すのを止めると生徒や保護者の顔を見渡し、言葉を続けた。
「そのとき僕が実感したのはバイオバスによって皆さんに『科学はもっと身近なものなんだ』と感じてもらえる、ということでした。あれから18年が経ちましたが、私達の目標は今も変わりません。それは『実際に手を動かして科学を体験することがどれほどワクワクするか』『科学者のように考え、行動することがどんなことか』を伝えること。そして科学とコミュニティをつなぐことです。 今日学校の前に停まっている新しいバイオバスは、沢山の方々の協力と絶え間ないの努力の成果です。決して一夜にして実現したものではありません。実現までには3年近くの月日がかかっています。 でもこれはまだ通過点でしかありません。私たちは全ての若者が科学に触れることができる世界を目指しています。 今日ここにいる若い皆さんへ。バイオバスに乗るときはただ楽しむだけでなく、その体験を是非次に繋げてください。是非学校の授業やクラブに参加してください。そしてその楽しさを友達に伝えてください。そうやってワクワクを広げていくことが、この活動を支える一番大切な力になります」。
会場の拍手が静まったあと、生徒達は講堂を出ていよいよバスに向かう。穏やかな日差しが陽だまりをつくり、校舎前は先程より暖かくなっている。そしてバスの前には既に乗車の順番を待つ生徒の列ができている。
「今日ここにいる若い皆さんへ」(Photo: Andrew Cribb)
未来の科学者達へ届ける「最初の一歩」
今回登場した新しいバイオバスは完全電動式だ。ベンはこれをとても誇りに感じている。最大のメリットはディーゼル型と異なり走行中に二酸化炭素(CO2)などの排出ガスを出さない 「ゼロエミッション」。だから環境にも優しい。
「観察を終えてバスの中から出てきた生徒達が興奮したように周りと話している。ラターシャと同じく、科学について何もしらなかった子供達が顕微鏡を手に取り、その目が輝き始める瞬間を見るのがベンにとって最も幸せな瞬間だ。
「世界には今、解決しなきゃいけない問題が沢山ある。空に太陽の光や風の力を他のエネルギーに変えることはできないか。再生可能なエネルギーをどうやって生み出すことができるか。
若い世代が問題をクリエイティブに解決できるように、僕たちはサポートを続ける必要があるんだ」。
「科学」という言葉に身構える必要はなさそうだ。身の回りの疑問や問題を見直し、解決する鍵は「科学」なのだから。そしてドクター・ベンのバイオバスはこんなに楽しいスタイルで未来の科学者達へ「最初の一歩」を届けに今日も走る。
バイオバスは未来の科学者達へ「最初の一歩」を届けに今日も走る(Photo: BioBus)
※2009年にDr. ベンが最初に訪れたブロンクスの中学校はベイチェスター・ミドルスクールと同じ建物内にあるJ.P. ソウサ・ミドルスクール。(J.P. Sousa Middle School )
BIOBUS
https://www.biobus.org/
設立年:2008
事業内容:幼稚園児から大学生までを対象とした科学に関するレクチャー、イベント、ラボ活動、ワークショップ。非営利団体
著者について
Hiroshi Kishiro
東京都出身。在ニューヨーク25年。
M.F.A(アート修士号)所持。日本での専攻は初等教育学。
ホスピタリティー業界でデザイン、PRに15年携わった後不動産業界に転身。
エージェントとして仕事をする傍ら持ち前の好奇心とフットワークを生かしデザイン、
TV番組制作、ライター、ツアー作成まで様々なプロジェクトを展開中。
NEXLYって?
未来へとつながる、まだ見ぬ物語を。
Nexly(ネクスリー)は、「未来へのステップ」を意味する“Next”と、「人や情報をつなぐ」“Link”を組み合わせた、アメリカ・中南米に特化した総合情報プラットフォームです。旅先での出会い、現地での暮らし、キャリアの選択。世界のどこかで生まれる、小さなきっかけを大切に、今をつなぎ、未来をひらく情報を発信しています。現地に根差した日本語メディアと提携し、確かなニュースや地域情報を厳選。さらに、Nexly独自の現地取材によるレポートや特集記事も展開し、中南米のリアルな今を、より豊かに、立体的に伝えていきます。
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